仕事で気を遣いすぎて消耗する。それが「優しさ」だと思っていた話
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仕事で気を遣いすぎて、疲れる。
「今、話しかけても大丈夫かな」——何かしようとするたびに、まずそれが頭をよぎる。相手の表情を確認して、トーンを確認して、気づいたら一日中誰かの反応を気にしながら動いている。気を遣うこと自体は嫌いじゃないけど、それが積み重なると帰宅後に何もできないくらい消耗している。
自分でも「気にしすぎ」だとわかってる。でもやめ方がわからなかった。
気を遣うことが「普通」だと思っていた
営業職だから、相手の空気を読むのは仕事のうちだと思ってた。
お客さんの表情の変化、上司のトーンの変化、同僚の一言のニュアンス——細かいことが自然に目に入ってきて、それに合わせて動く。スタートアップに来てから少人数になって、一人ひとりとの距離が近くなった分、拾う情報量がさらに増えた 😶
入社3年目のころ、「最近なんか疲れた顔してるね」と代表に言われて、そのとき初めて「あ、そんなに消耗してたんだ」と気づいた。自分では普通にやってたつもりだったから、ちょっとびっくりした。
「優しさ」と「自己消耗」の区別がつかなかった
うまく言えないんだけど、気を遣うことを「優しさ」だと長い間思ってた。
相手が嫌な思いをしないように先回りする。雰囲気が悪くなりそうなら自分が引く。誰かが困っていそうなら声をかける。それ自体は、なんか、嫌いじゃない。でも 😶 気を遣うたびに何かを使い切っている感覚があって、それに長い間気づかなかった。
気を遣うことと、気を遣いすぎることの違いって、「相手のためにやっているか」「嫌われないためにやっているか」の違いだと、最近思う。後者だと、どんなに遣っても消耗するだけで、相手との関係は実はそんなに深くならない。
そのころ読んだ『繊細さん』(武田友紀)に、「気を遣いすぎることは、相手の感情を自分が引き受けようとすることだ」という趣旨の話が出てくる。敏感な人は他者の感情を感知する能力が高いぶん、相手の不機嫌や疲れをまるで自分のことのように感じてしまいやすい、という内容で。
読んで、「あ、私の消耗の正体これかも」と思った 📖
「気を遣わない」じゃなくて「遣い先を選ぶ」
気を遣うのをやめようとしたら、逆につらかった。
「今日は気を遣わないぞ」と思って一日過ごすと、なんか自分じゃない感じがして、余計に疲れた。気を遣うことは私の一部で、それを全部なくそうとするのは無理があった。
少しマシになったのは、「全員に同じ精度で気を遣わない」と決めてからだった。仕事上で大事にしたい相手には丁寧に。でも、全員の空気を同じ解像度で拾おうとしなくていい。気を遣う先を意識的に絞ると、消耗の量がかなり変わってきた。
今でもまだ、つい全方向に気を配ってしまう日がある。でも「あ、これ今必要かな」と一瞬立ち止まれるようになってきた気がしてる。
気を遣いすぎる自分を責めなくなった
気を遣いすぎることを「弱さ」みたいに感じていた時期がある。「もっとドライにやれれば楽なのに」「こんな細かいことを気にするのは私だけじゃないか」——そういうことをずっと思ってた。
でも、細かいことに気づける人が営業にいることで、助かっているお客さんはいると思う。転職してから、「前の担当と全然違う」と言ってもらえることが何度かあった。気を遣えることが、武器になっている部分も確かにある。
問題は、気を遣う量の配分じゃなくて、「遣いたくない相手にも遣わなきゃ」という感覚だった気がしてる。職場の空気が悪くなるのが嫌で全員に気を遣う、怒らせるのが怖くて全員に気を遣う——それは優しさじゃなくて、自分を守るための行動だったのかもしれない。
嫌われる勇気の続編『幸せになる勇気』(岸見一郎・古賀史健)に、「愛することと、愛されようとすることは、全く別の行為だ」という話が出てくる。気を遣うことが「相手のため」なのか「嫌われたくないから」なのかを分けて考えると、消耗の正体が少し見えてくる。読んで、「ずっと後者でやってきたかもしれない」と思った 📖
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全部なくなったわけじゃないけど、「全部拾わなくていい」は少しずつ自分に許可できるようになってきた。気を遣える自分はそのままでいい。ただ、遣い先を自分で決められるようになれたら、もう少し長く続けられる気がしてる。