職場でいい人を演じて疲れた。それが癖になっていた話
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職場でいい人を演じている自覚が、長い間なかった。
同僚が「この案件、しんどいな」とこぼしたとき、私は「でも大丈夫ですよ」と反射的に返した。そう思っていたわけじゃない。むしろ「わかる、私も」と言いたかった。でも出てきた言葉は違った。「場が重くなる」のが怖かっただけだった。
そういう小さな「演じ」が積み重なって、ある日の帰り道に何もできない疲労になっていた。
「波風を立てないこと」が最優先だった
大手にいたころから、その癖はあった。
誰かが不機嫌そうだと、場が和むように話題を変える。意見が食い違いそうになると、自分が引く——そういう動き方が、知らないうちに染み付いていた。「それいいですね」と言い続けてきたのは、相手のためじゃなかったと今は思う。
スタートアップに転職してから、それがより顕著になった。少人数で誰がどんな状態かが見えやすい分、空気が悪くなることへの敏感さが上がった 😶
営業に向いてるというより、「場を壊したくない」という防衛が、営業という仕事にたまたまはまっていた。そういう感覚があった。
「いい人」の正体を少し考えた
誰かに「Yukiさんって、いつも明るいよね」と言われたことがある。嬉しかったけど、なんかもやっとした。
明るいんじゃなくて、明るくしていた。そのふたつは違う。気づいたとき、なんか少し恥ずかしかった。
自分の機嫌が悪い日も、疲れている日も、「大丈夫ですよ」が出てくる。相手が安心するから出すんじゃなくて、自分が嫌われないために出していた部分が、正直かなりあった。
「いい人を演じる」って、相手への配慮に見えて、実は自分が傷つかないための行動だったんだと、あるとき気づいた。
そのころ読んでいた『嫌われる勇気』(岸見一郎・古賀史健)に、「承認を求める行動は、他者の評価に自分の価値を委ねることだ」という話が出てくる。嫌われないためにいい人を演じ続けることは、相手に「私を好きでいてください」と言い続けることでもある——そう読んで、自分のやっていたことがはっきり見えた 📖
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やめたんじゃなくて、少しずらした
「いい人を演じるのをやめよう」と決めても、翌日にはもう返していた。癖というより、ほとんど呼吸みたいになっていたから。
変わったのは、「演じるのをやめる」より「ちょっとだけずらす」を意識してからだった。
「大丈夫ですよ」の代わりに「しんどいですよね」と返してみる。場の空気が壊れるかもと思っていたけど、大抵の場合、そんなことはなかった。むしろ「そうなんですよ」と続きが出てきて、会話になる 🌿
全部変えようとすると続かない。一個だけ変えると、意外と大丈夫だった。
嫌われていないかどうかを確認しながら動く毎日は、しんどい。相手が何を思っているかなんて本当はわからないし、どんなに気を使っても嫌われるときは嫌われる。
「ちゃんといい人でいること」より「自分が誠実だったかどうか」の方に軸を置いた方が、長く続けられる。少しずつそう思えるようになってきた。
「大丈夫ですよ」はまだ出てくる。たぶんこれからも出てくる。ただ、「あ、またやった」じゃなくて「今日もそうだったな」に変わってきた。責めてるのか観察してるのか、その温度の違いだけで、なんか少し楽になる 🌱